コラム
九谷焼とは〜vol.1〜
九谷焼とは〜vol.1〜
2021.01.19 #制作の小話

 

九谷焼は石川県を代表する伝統工芸であり、九谷の五彩【青()・黄・紺・紫・赤】と呼ばれる色絵を特徴とする磁器です。

絵付けの特徴に加え、次代に応じた自由な発想による図案や構図の妙も大きな魅力となっています。

元禄文化が始まろうとしていた明暦元年1655年、雪深い山間の里、加賀国江沼郡九谷村(現在は九谷ダム建設により廃村)で初めて九谷焼が焼かれました。

創始期に焼かれたものを「古九谷」と呼び、それ以後を再興九谷として区別しています。

古九谷は加賀藩から分家した大聖寺藩初代藩主前田利治(初代加賀藩主利家の孫)の命により藩直営の官窯にて始まりました。

 利治の父である加賀藩三代藩主前田利常は、京都や江戸から蒔絵や金工の名工を招き、

茶や能をたしなみ百万石美術工芸の基礎を作った名君でありますが、狩野派の画工も多数招聘し、古九谷にも大きな影響を及ぼしました。

しかし 、そんな華やかな古九谷も約50年後の1710年には突然廃絶の道を辿ります。

その理由はいまだ定かではなく、「謎」と「ロマン」の彼方です。

 

九谷焼はその後、再び加賀藩直営で、京都の画家青木木米の指導のもと春日山窯が開窯され、再興九谷の時代へ入ります。

古九谷再興を目指した吉田屋窯や赤絵細描画の飯田屋窯を始めとし、多くの窯が出現しました。

中でも寺井村(現在の能美市)に生まれた九谷庄三の作品は海外にも輸出され、九谷焼の名は海外でも人気を呼びました。
江戸末期、そうして寺井村でも九谷焼は盛んになり、明治十二年上出長右衛門窯も誕生しました。

平成に入り、三代徳田八十吉、吉田美統が重要無形文化財保持者(人間国宝)に選定されるなど、

九谷焼は石川が誇る伝統工芸として時をこえ現代に受け継がれています。

 

参考:

色絵鶴かるた文平鉢

http://ishibi.pref.ishikawa.jp/collection/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=101

 

 

 

 

【九谷焼の磁器】

九谷焼の磁器は花坂陶石を原料とした粘土を使用して作られています。

花坂陶石は特殊な表面で水分を多く吸収できるために高い保湿性を持ち、粒子が絡みやすい特徴があります。

この性質を活かすために、陶石を砕く過程ではスタンパという杵のようなものを使用します。

(他の産地ではミルという粉砕機を使うことが多いのですが、それでは粒子が丸くなって花坂陶石の特質である粘り気がなくなってしまうのです)。

保湿性が高いことで、成形に時間をかけることが出来て大きな作品や細工の細かい作品も仕上げることが可能となり、

九谷焼が国内外で高い評価を得る一因となっています。

九谷焼のやや青味を帯びた素地は、その落ち着いた色調で、上絵付けを引き立てます。

 

 

 

【九谷焼の絵の具】

「九谷は絵付けを離れて存在しない」といわれる通り、九谷焼の最大の特色はその独特な絵付けにあります。

まず筆頭に挙げられるのが、九谷五彩といわれる、青(緑)・紫・黄・紺青の盛り絵具に不透明の赤を加えた五色の絵の具と、呉須による効果的な線描を活かした絵付け法です。

これらの盛り絵の具の特徴は圧倒的な透明感にあり、表面の艶、ガラス質膜の厚さが発色をより高めます。

この透明感により、骨描きの模様が透けて作品に奥行きを与えます。

古九谷の時代より、絵の具に対しては焼成した時に

  • 「発色が美しいこと」
  • 「溶ける温度がほぼ同じであること」
  • 「貫入が少なく、剥離を起こさないこと」が求められてきました。

 

この他〝弁柄〟と呼ばれる不透明の赤の顔料で描かれる赤絵や、洋絵の具を併用する色絵、絢爛な金襴手など時代の変遷とともに多種多様な絵付け技法が行われてきました。昨今ではパステル調の盛り絵具を使用したカジュアルな表現も可能となっています。

透明感と艶を最大限に生かすために、比較的低温度で発色と定着に優れる有鉛絵具が 使われてきましたが、近年、産地の食器メーカーでは安全基準に即した耐酸や無鉛の絵の具の開発と普及に努めています。

 

文:八笑  ©️2021 hasshoo co.,ltd

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